心の灯火

a message for you 〜聖書への手引きとしてお役に立てれば幸いです〜

『キリスト者の自由・聖書への序言』/ マルティン・ルター著について

キリスト者の自由」は、50ページほどの短い論文ですが、キリストによってもたらされた自由とは何か、信仰とは何か、義とは?、愛とは?が、明瞭に説かれています。

ここで掲げられている2つの命題、

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。

キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。

 

これを理解するには、人(キリスト者)は皆、”何人も霊的と身体的との両性質を持っていることを記憶しなければならない。” ということです。

 

さて、ルターの改革の動機は、以下の文面に現れています。(言わずもがなカトリックに対するルターの異議申し立てであり、宗教改革の発端となったもの)

それ故に痛悔や懺悔告解や滅罪について書いたり説教したりするのは良いことであろうが、そこからさらに進んで信仰にまで達しないならば(略)、、、、。神の言はただその一面だけではなく、両面を共に説かれなければならない。(略)、、、その他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきであり(略)、、、。要するに、痛悔は誡めから生じ、信仰は神の呼びかけから発するが、これに応じて人間は神の誡めへの畏怖によって心砕かれて謙虚になり、自己認識にまで導かれ、かくて神の言の信仰を通して義とされまた高くされるのである。

行い(善行や懺悔)によって、罪が許されるのではなく、まず、信仰があって、人は義とされる。人は信仰によってのみ、罪から解放されて、自由となり(霊)、自ら進んで、隣人に仕える。行いだけで、そこに信仰がないのは、偽善であり欺瞞である、とカトリックを批判した。善い木から良い実が実り、悪い木から悪い実が実る。善い心から良い行いが生まれ、悪い心から悪い行いが生じる。その逆はない。従って、善い実が木を良くすることはなく、それはつまり、戒律に従って善い行いをしても、そこに信仰がなければ、永遠に罪から救われることはないのです。「善いまたは悪い行いをする前に、その人格においてまず義しくあるいは悪くあらねばならない。」

そこで、自由や義、信仰、愛とは何かが説かれていくのですが、内容については、私が書くことで、そのエッセンスを損ねないよう、是非、本書を読まれることをお勧めします。本書では、この他、新約聖書への序言、聖パウロのローマ信徒にあてた手紙の序言、詩篇への序言が収められています。聖書の手引き書として、これほど適ったものはないでしょう。私は、聖パウロのローマ信徒への手紙は、一度読んだくらいな程度で、正直特に熱心になることなく、それほど印象にも残っていませんでした。それほど、理解できていなかったということです。ところが、ルターの序言を読み、律法、福音、罪、刑罰、恩恵、信仰、義、キリスト、神、良き行い、愛、希望、十字架がなんであるかが、改めて聖パウロのローマ信徒への手紙を読みまして、すべてが鮮明に理解できました。

 

※ 義とは、キリスト教で、神の正しさ。また、人が神によって正しい者と認められ、その恵みのうちに生きること。(広辞苑より)

 

拙い解説ではありますが、わずかでも一助となれば幸いです。